カウンセラーと無力感

カウンセラーに限らず、人を助けるような仕事をしている人はぶつかりやすい壁。それが無力感。今日はそんな無力感について語ります。

まず、私がどんなときに無力感を感じるかというと、助けたかった(役に立ちたかった)相手が、自分の期待した通りにならなかったときです。

この期待というのが厄介でして、大抵無茶なことを期待しちゃってるんですよねー。

例をあげると、私の両親は昔からケンカばっかりで、その原因が主にお金と浮気とご近所トラブルだったんですけど、これはどれも私にはどうにも出来ないものでした。

多額の借金を返すほど働ける訳でもないし、浮気相手や仲の悪い近所の人達と私が話し合うとか無理だし、解決方法なんて分かりませんでした。

昔の私がやっていたのは両親の愚痴聞き役(と言う名のサンドバッグ!?)だったのですが、ただしんどいだけだし、具体的な問題の解決に至るわけでもないので、「私にはどうにも出来ない」という無力感ばかりが大きくなっていきました。

そしてある時、全く働けなくなった私があるカウンセラーに上記の話をしていたとき、「あなたは酔っ払いの介抱をしたことある?」と聞かれました。私が無いですと答えると、その人はある例え話をしてくれました。

それは「酔い潰れた人を介抱するとき、本人に歩く意思があるなら、こちらも何とか肩を貸して支えられるけど、自ら歩こうとせず完全にこちらに頼りきりになると、重くて全然支えられない。これは他の問題にも言えることで、本人に何とかしようとする意思が無ければ、周りの人間も助けられない。」というものでした。

この話を聞いて、今まで私は両親の問題を私が解決しなくてはならない(でも出来ない)という思いに囚われていたなーと強く思いました。

そして冷静になって考えてみると、両親は先の例でいう「自らの足で歩こうとしない酔っ払い」=依存の状態だなー。問題に対する愚痴や文句ばかりで、具体的な解決の方向に行こうとしないもんなーと分かってきました。

ただ、私はこのことで別に両親を恨もうとは思っていません。両親の問題を自分の問題と混ぜて考えて、「私が何とかしなくちゃ!」と無茶したのは私自身の責任です。私は両親の問題に目を向けている内は、自分の問題から目を逸らしていられたのですから。

私自身の問題は「誰かの役に立たなければ生きている意味なんてない。ただ生きているだけで価値があるなんて嘘っぱちだ。」という無価値感と、「私には誰かを助けられる力があるのではないか」という傲慢さです。

カウンセラーや医療職などの人を助ける仕事をしている人は無力感との戦いであると根本師匠は言っていたけど、(ブログにも記事があります)、私は己の無力感と「助ける」とはどういうことなのか?ということを考えながら次回以降の記事も書いていきたいです。

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